2005年 10月 23日
ワールドワイドに近所的に生きていきたい。
スペイン料理の極意を味わった後、ダーリンのおばあちゃまのお墓参りに行き、バラ園で優雅な午後を過ごし、にゃんと銭湯に行く。
秋晴れの空とともに私の体も幸せでいっぱい。
にゃんは昔から近所のばあちゃん達に愛される。今日もお風呂で「わたしちゃん、15キロもあるの?」「わたしちゃん、ちゃんと洗面器お片づけできて偉いわねえ。」「わたしちゃん、お姉ちゃんになるのね。」(にゃんはいつも”わたし、にゃんっていうの。わたしね、もうすぐ妹か弟が産まれるの。わたしね、自転車に乗って〜くるんだけど〜坂道は危なくてこげないの。”など私、私、と天動説なので”わたしちゃん”という愛称で呼ばれているのだ。)など様々なばあちゃんらにからかわれ、かわいがられるのであった。
最近はむすっとして挨拶もしない親子が多い中、にゃんはいつも妙に愛嬌がある。私はにゃんのそんな近所な感じ、誇りに思っているのです。
やっぱりむすっとした親子って閉じてる感じがして寂しい。
いつもいたずらの事を考えて、目をキラキラさせて、元気な子で居てほしいなと思う。
ママはにゃんに、いろんな世界を空想したり、いろんな立場の人たちに接する事が出来る子に育ってほしいなと思っているのですよ。
昨日の夜ほぼ徹夜で完成させた次回発売ポパイ用の原稿もなかなか好評なり。「増山さん独自の文体が出来てきましたね。」担当編集者Kさんに褒められる。今回はスヌーピー展、草間彌生さんを取り上げることになった。
草間さんの小説も読み、ディープな草間彌生ワールドに浸った週末であった。やっぱりアーティストはあれぐらいの自己陶酔が必要だな、と先輩の姿から学ぶ私である。日本から世界に飛び出して、体一つで何十年も表現の戦いを繰り返して来た草間さんの姿や作品、文章は気合いに満ちて素晴らしい。やっぱり周りとの人間関係や、社会の規制にどうあわせるか、などという事に心を摩耗させる暇があったら、作品の事、生命の事、宇宙の事、子供の事、自分のルーツの事を200パーセント誠意を持って悩んでいなくてはいけないと思う。どーも日本の美術界という奴はスケールとチンポが小さいぜ。その小ささに会わせて自分を変える必要などは無いや。芸術の神様との約束を守って、もっとスケールの大きな人生を生きてゆきたい。と、薬草湯の中で妄想す。
政治と言われるものとお付き合いする機会がどうも多いのだが、私が描きたいのはもっと命の話であるような気がする。私は単に日々命を感じるように生きていきたいだけだ。
最近とみに進むこの国の右翼化と管理化、合理化などが渾然一体となって閉鎖的な世界を作っているような気がしてならない。別にイラクの子供達の顔は輝いていた、アジアの子供達の貧しいけれど目は美しかったとかそんな偽善を言うつもりはさらさらない。去年出会ったストリートチルドレンの子供達はシンナーが蔓延し、荒んだ顔をしていた。(その状況を作った責任が自分たちにもある訳だが)暮らす為、教育の為のある程度の金は何処でも必要不可欠だ。
しかし
結論は出ていないのだが、この時代に、何処でどのような生き方、子育てをしたら、私も子供ものびのびと生きてゆけるのだろうかと言う疑問が日々澱のようにたまっていく。
そしてそれは芸術の中での悩みとも重なっていく。上辺の技巧ではなく(技巧も磨こう→私!)もっと本質的な生命力に訴えるようなものを作るにはどうしたらいいのだろうか。
もしかしたらそれは地理的な問題ではなく、自分の生き方の問題なのかもしれない。私は特定の宗教を信じては居ない。そうなると子供に命の大事さや生きていく上でのノウハウをどうやって系統的に教えていけばいいのだろうか?答えは新しい歴史教科書に?
非通知の無言電話が続いている。ぷるるるるという無機質な音を通して感じる誰かの小さな絶望。それはこの国で同時多発的に起こっている触感の失われたオタク的テロの一つの具象に過ぎないのだろうか?自分の殻に閉じこもったひどく童貞的な絶望。顔の見えない相手からの目に見えない暴力やイライラが連鎖的にこの国を覆っているような気がしてならない。その集団妄想が現代のヒトラーの出現を望んでいるとしたら、そんな気持の悪い事は無い。インターネットのように末端まで張り巡らせた現代の絶望。もっと希望を持った方向へその無意味なエネルギーを向ける事は出来ないのだろうか。
秋晴れの空とともに私の体も幸せでいっぱい。
にゃんは昔から近所のばあちゃん達に愛される。今日もお風呂で「わたしちゃん、15キロもあるの?」「わたしちゃん、ちゃんと洗面器お片づけできて偉いわねえ。」「わたしちゃん、お姉ちゃんになるのね。」(にゃんはいつも”わたし、にゃんっていうの。わたしね、もうすぐ妹か弟が産まれるの。わたしね、自転車に乗って〜くるんだけど〜坂道は危なくてこげないの。”など私、私、と天動説なので”わたしちゃん”という愛称で呼ばれているのだ。)など様々なばあちゃんらにからかわれ、かわいがられるのであった。
最近はむすっとして挨拶もしない親子が多い中、にゃんはいつも妙に愛嬌がある。私はにゃんのそんな近所な感じ、誇りに思っているのです。
やっぱりむすっとした親子って閉じてる感じがして寂しい。
いつもいたずらの事を考えて、目をキラキラさせて、元気な子で居てほしいなと思う。
ママはにゃんに、いろんな世界を空想したり、いろんな立場の人たちに接する事が出来る子に育ってほしいなと思っているのですよ。
昨日の夜ほぼ徹夜で完成させた次回発売ポパイ用の原稿もなかなか好評なり。「増山さん独自の文体が出来てきましたね。」担当編集者Kさんに褒められる。今回はスヌーピー展、草間彌生さんを取り上げることになった。
草間さんの小説も読み、ディープな草間彌生ワールドに浸った週末であった。やっぱりアーティストはあれぐらいの自己陶酔が必要だな、と先輩の姿から学ぶ私である。日本から世界に飛び出して、体一つで何十年も表現の戦いを繰り返して来た草間さんの姿や作品、文章は気合いに満ちて素晴らしい。やっぱり周りとの人間関係や、社会の規制にどうあわせるか、などという事に心を摩耗させる暇があったら、作品の事、生命の事、宇宙の事、子供の事、自分のルーツの事を200パーセント誠意を持って悩んでいなくてはいけないと思う。どーも日本の美術界という奴はスケールとチンポが小さいぜ。その小ささに会わせて自分を変える必要などは無いや。芸術の神様との約束を守って、もっとスケールの大きな人生を生きてゆきたい。と、薬草湯の中で妄想す。
政治と言われるものとお付き合いする機会がどうも多いのだが、私が描きたいのはもっと命の話であるような気がする。私は単に日々命を感じるように生きていきたいだけだ。
最近とみに進むこの国の右翼化と管理化、合理化などが渾然一体となって閉鎖的な世界を作っているような気がしてならない。別にイラクの子供達の顔は輝いていた、アジアの子供達の貧しいけれど目は美しかったとかそんな偽善を言うつもりはさらさらない。去年出会ったストリートチルドレンの子供達はシンナーが蔓延し、荒んだ顔をしていた。(その状況を作った責任が自分たちにもある訳だが)暮らす為、教育の為のある程度の金は何処でも必要不可欠だ。
しかし
結論は出ていないのだが、この時代に、何処でどのような生き方、子育てをしたら、私も子供ものびのびと生きてゆけるのだろうかと言う疑問が日々澱のようにたまっていく。
そしてそれは芸術の中での悩みとも重なっていく。上辺の技巧ではなく(技巧も磨こう→私!)もっと本質的な生命力に訴えるようなものを作るにはどうしたらいいのだろうか。
もしかしたらそれは地理的な問題ではなく、自分の生き方の問題なのかもしれない。私は特定の宗教を信じては居ない。そうなると子供に命の大事さや生きていく上でのノウハウをどうやって系統的に教えていけばいいのだろうか?答えは新しい歴史教科書に?
非通知の無言電話が続いている。ぷるるるるという無機質な音を通して感じる誰かの小さな絶望。それはこの国で同時多発的に起こっている触感の失われたオタク的テロの一つの具象に過ぎないのだろうか?自分の殻に閉じこもったひどく童貞的な絶望。顔の見えない相手からの目に見えない暴力やイライラが連鎖的にこの国を覆っているような気がしてならない。その集団妄想が現代のヒトラーの出現を望んでいるとしたら、そんな気持の悪い事は無い。インターネットのように末端まで張り巡らせた現代の絶望。もっと希望を持った方向へその無意味なエネルギーを向ける事は出来ないのだろうか。
by renaart
| 2005-10-23 19:29